鄭成玉氏の親善交流日誌(その6)・・・最終回
投稿日:2011年3月3日(木) 00時25分
「なぜしんどいのにマラソン走るのか」と問われると「ただ健康の為に・・・」
マラソンを始めてすでに十余年が過ぎた。筆者がマラソンをしているということを知って周囲の人たちは「なぜしんどいマラソンを走るんですか?」といぶかしげにまた心配そうに聞く。
1998年3月政権交代と同時に役職をなくし一年を過ごし、1999年3月末、33年間青春を捧げた所(公報処→文化観光部)から名誉退職という名前で強制退出(?)した後、一山に引っ越した。3食(毎日)がつらく、退職者だけで会って焼酎でつらい身の上話(身世打鈴)をしながら、むなしい歳月を過ごした。たまにゴルフで旧同僚達に会い楽しんだけれど、暮らし向きが思い道理にならない立場で十分に行うことが出来ず中断し、ずいぶん前からしてきている登山を主な種目にした。登山道でも、筆者と同じような姿の頭を垂れた中長年男性達と会うと視線を逸らした。
4月中旬12日間の高陽国際花博覧会で日本語通訳ボランティア活動を終えた後、一山湖水周囲を走り始めた。5km→10kmを手始めに十月のハーフマラソン大会(21.0975m)に参加を経験した後すぐ怖れもなくフルマラソン(42.195km)大会に挑戦した。
最初に参加したフルマラソンを回想してみる。2000年秋のマラソン大会だ。若いランナー達とハーフ地点を軽快にそして一生懸命走っていたが、35km地点に来ると予想通り足がつって、胸が苦しくなり、究極の境地になってきた。ちょっとやそっとの苦痛ではない。なぜこんなに苦しいマラソンをするのかと反問してみた。失業者になった鬱憤を克服する為である、中途で放棄する事は出来なかった。
ゴール地点が近くなるにつれて万感いろんな思いが交錯した。親父を慰労しながら米国留学の道に旅立った息子、「鄭先生はいらっしゃいますか」という昔の総務と職員の電話を受けて衝撃を受けた娘、公務員であった家長を慰めようと努め段々と言葉少なになった妻など、家族の姿が突然浮かび上がってきた。今の悲しみを洗い流してしまうには完走しなければならないと言う一念で、有る力を全て燃やし尽くしてついにゴール地点を通過した。ゴール地点には同好者達がクラブの最高齢者を拍手で歓迎してくれた。手を挙げて振りながら有り難うと応答した。4時間20余分の初完走の快感で疲労を忘れた。フルコース完走記念メダルを首にかけながら汗でぐしょぐしょになった顔をぬぐった。
その後、4時間5分→4時間→3時間52分と記録を短縮しながら、フルコースだけで十回余走った。今は「私一人が青年」という年寄りの欲望を捨てて、健康の為に走っている。過負荷の自動車がオーバーヒートする状態を常に肝に銘じながら、もっともっと走りたい。
今は愛する息子と娘は米国ミズーリ大学とソウルの某大学で教職生活をしている。筆者は2004年初から7年間活動していた首都移転反対運動を、去る6月国会での世宗市(セジョン市:忠清南道の燕岐・公州地域)建設確定と同時に中断し、社会活動で出かける事を控えている。
(注1)一山湖水マラソンクラブは一山湖水の走る仲間が1999年に設立した同好者の集まりで、約300名の会員が毎週日曜日、早朝マラソンを楽しんでいる。会長職を引き受け韓日親善交流を周旋してきたが、いまは後方から支援している。
(注2)尼崎走ろう会は42年の長い歴史と170余名の会員を持ったマラソンンクラブである。尼崎市は大阪市の西側約30kmの小さな都市で、西宮市、宝塚市、伊丹市、神戸市、等と接している。毎週日曜日朝、武庫川を中心にアマチュアランナー達はランニングをいている。